ニジンスキーの手記・完全版

2010年3月10日分から、試験的に書いています。
本家(2009年1月5日〜)は、こちらです。
http://stsimon.paslog.jp/


ヴァーツラフ・ニジンスキーは伝説的なバレーダンサーです。
1889年3月12日に生まれ1950年4月8日に亡くなっています。
何年か前にテレビで「ニジンスキー」という映画をやっていました。
それが彼の事を知った最初でした。
それまでは、英国競馬の三冠馬ニジンスキーとして名前を知っていま
した。
もちろん、その名前がバレーダンサーのニジンスキーから名付けられた
のは知っていたんですが。
肝心の本人については、詳しくは知りませんでした。


ニジンスキーの涙」(2009年10月26日)
ではロシア人みたいに書きましたが、育ちはロシアですが両親はポーランド
人だそうです。ちょっと意外でした。
映画「ニジンスキー」ではディアギレフとの同性愛が大きく描かれていました
が、コミュニケーションが下手な天才の孤独が印象的でした。


セルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団1909年のパリ公演。
「アルミーダの館」の奴隷役で出演し、彼の伝説が始まりました。
ここからの話は山岸涼子さんの漫画「牧神の午後」が面白いです。
 この時
 ニジンスキー
 最後の走り去る
 場面で衝動的に
 跳躍でカーテンの
 陰にかくれた

 舞台の
 ほぼ中央から
 跳んだのだが
 カーテンに到達
 した時は
 ちょうど跳躍の
 頂点だったので

 観客の目には
 彼が上昇しつづけて
 降りてこない
 ように見えた
一瞬の沈黙。この後、我に返った観客から大喝采を浴びます。
人間離れした跳躍と完璧なテクニック、表現力で、たちまちスターになり
ました。
余りに高く跳ぶので「空中で止まって見える」とまで言われたのです。
まぁ、色々あって1919年に踊ったのを最後に狂気の世界に入り、遂に死ぬ
までの30年間こちらの世界には戻って来ませんでした。


さて、前置きが長くなりましたが1919年に最後の踊りで伝説的な跳躍を見
せた直後からこの「手記」を書き始め、精神病院に入院するまでの約6週間
で書きあげています。
「手記」は1936年にニジンスキーの妻ロモラによって出版されましたが、削除
された部分などがあり完全版は1995年になってからでした。
因みにロモラは映画でも漫画でも「有名人と結婚したかっただけの女」として
評判が悪いです(笑)。


肝心の「手記」ですが、ディアギレフやロモラへの愛憎、周りの人や有名な
人、そして自分について独特の表現がされています。
あるいは夢を現実と混同しているような部分も多いです。
「私は神である」とか「神が私に〜と言った」という神様の表現も多いですね。
「私はロシア人だ。ロシア語を話すから」というのもありました。
あるいは「手記」が出版されるのを望む文章も。
既に精神を病んでいる時なので、深い意味を読み取るのは難しいです。
しかし、詩とか手紙は人の心に響くものがあります。
全体を通奏低音のように流れているのは、周囲から理解されない孤独感の
ようなものでしょうか。


漫画「牧神の午後」で面白い部分があります。
既成概念にとらわれない子供が「スプーン曲げ」をして、常識を習得して
からは出来なくなる例を挙げて
 とすれば 常人に不可能と 思える距離を 跳べると信じて
 跳んでみせる ニジンスキー
 既成の事実に とらわれない 子供と同じと いう事になる
 しかし いつまでも 既成の事実に とらわれないと いう事は
 ひいては 現実を習得 できないという 事なのだ


この部分を読んで想起したのは、戸松遥さんがステージで見せるジャンプ
です。私は「戸松ジャンプ」と呼称していますが。
他の人より跳んでいるのですが、写真で見ると一人だけすごい海老反りに
なっている事があって驚きます。
子供の心を持つ戸松遥さんは、きっと無心で跳んでいるのではないでしょ
うか。後の事は考えずに。ふと、そんな事を思いました。


さて、狂気の世界に入ってしまったニジンスキーですが1939年に訪問した
友人リファールによって1枚の跳躍している写真が残っています。
これが不思議な写真で、両手を広げ脚を曲げずに跳躍している姿なのです
が、まるで空中で静止しているように見えます。


ニジンスキーの娘は、彼が死んだ同じ時刻に踊る男を幻視したそうです。